今回紹介するのは、記憶とその正確さについて心理分析されているものを紹介します。
このブログは、医学と健康に関して後悔しないような選択肢をとってもらうために、 科学的根拠の高い論文などを紹介し、それをどう使っていくべきなのか?を私が解説・提案していくブログです。
臨床では、人の記憶、自分の記憶を頼りに判断・行動することが多々あります。
但し、それはどの程度の信頼性があるものなのか?
ということをお考えになったことはありますか?
例えばですが、1年前にぎっくり腰になりました。
いや~あの時は、重たい水のタンクを持ち上げようとして、
グッと持った瞬間に腰に来たんだよね~
と言われたとしましょう。
果たしてこの重たい水、タンク、グッと持ったということはどこまでが本当なのでしょうか?
もしかすると、そんなに重たくなかったかもしれません。
言っている人の体格で重たさもイメージが割れるかと思います。
タンクと言っても数10ℓは入るものなのか、
数リットルのものなのか?
どこまでが正確なのでしょう?
という疑問から、これらの記憶の正確性について調査されている論文がありました。
この論文の主な主張は、人々が思い出したときに想像し、想像したときに記憶を使うことです。想像することは「記憶を扱う」ことを含みます。
自伝的記憶(AM)は、大面積の新皮質および辺縁系を通して分布するニューラルネットワークによって仲介される複雑な認知システムである
自伝的記憶には、自伝的知識、例えば個人的な事実に関する知識が含まれています。私たちの時代の歴史などの文化的な知識。それはまた、エピソード記憶、例えば経験から導き出された断片的な知識も含む( Conway、2009)。そのようなものとして、それは自己の主要部分を形成している。
これらはPCで想像して頂くと、古く、そう10年前ぐらいに撮影して保存している写真があるとしましょう。
その写真ではアナタはどんな表情をしていたのか?
どんな場所で撮ったのか?これらはPCの場合データとして正確に保存されているため、鮮明な画像を再び見ることができますが、人ではどうでしょう?
記憶で構築される想像した映像は、天気、温度、場所、背景などすべての情報を思い出すことは大変困難になります。
そのように自伝的記憶というものは、私達のメモリから想像して思い出すということなのです。
そして、強烈に印象が残るエピソードが含まれる場合もあります。
それらは自伝記憶とは別にエピソード記憶とされ、エピソードがはっきりしている部分の記憶は鮮明であることもあります。
これらのように記憶を遡り思い出す、ということには正確性が欠けやすい要素が含まれているということと知って頂けます。
そして、記憶は忘れてしまうこともあります。
それは、脳の炎症、心理的症状などにより起こり、前頭葉や側頭葉を患った70歳代の女性の例では、「嘘」が見られるようになったということも報告されています。
このことから、記憶には実際体験したことに加え、精神的な面が強く干渉してくることがわかったということです。
つまりは、その人が体験したストレスが部分的であったことだとしても、
その部分的強調され、実際に起こり得た記憶とは違った記憶を発現することも多々あるということである。
医療という体の悩みがあり気な対応をする際、その悩みから聞き出したエピソードは正確性に乏しいのかもしれない。ということを念頭に置かなければ見逃してしまったり、過剰にサービスを提供する場面もあるということが予想されます。
これらを回避するには、
まず引き出した思い出、記憶は否定しない。
記憶=個人というように分析された結果があるため、
エピソードの疑い、否定をする言動は個人を否定していることと同義と、
捉えられてしまう可能性がある。
引き出したエピソードに共感を示し、現状を確認することに集中したらどうでしょうか?
そして、エピソードを引きずらないようにし、患者が求める期待、希望に対して具体的な提案をする。ということで解決しそうなもの。
実際には、様々な状況下で冷静に判断をくだし、これらを実行することは反復の練習が必要だと思いますが、私は独り言でシュミレーションしたりしています。
これは中々におススメです。
現場で、患者からの訴えを「それって本当にですか?ありえなくないですか?」というニュアンスの言葉を発する人がいたこともあり、このような記事を書きました。
記憶というものには、思い出から想像されている事実はあるようですので、
100%頼りにせず、100%目の前の患者さんに力を注ぎこんでいけば良いのかと。
そう考えると、電子デバイスの活用はもっと普及していきそうですね。
カルテとか問診票とか。
何せ、変換されることなく残りますからね。
このブログは、医学と健康に関して後悔しないような選択肢をとってもらうために、 科学的根拠の高い論文などを紹介し、それをどう使っていくべきなのか?を私が解説・提案していくブログです。
臨床では、人の記憶、自分の記憶を頼りに判断・行動することが多々あります。
但し、それはどの程度の信頼性があるものなのか?
ということをお考えになったことはありますか?
例えばですが、1年前にぎっくり腰になりました。
いや~あの時は、重たい水のタンクを持ち上げようとして、
グッと持った瞬間に腰に来たんだよね~
と言われたとしましょう。
果たしてこの重たい水、タンク、グッと持ったということはどこまでが本当なのでしょうか?
もしかすると、そんなに重たくなかったかもしれません。
言っている人の体格で重たさもイメージが割れるかと思います。
タンクと言っても数10ℓは入るものなのか、
数リットルのものなのか?
どこまでが正確なのでしょう?
という疑問から、これらの記憶の正確性について調査されている論文がありました。
この論文の主な主張は、人々が思い出したときに想像し、想像したときに記憶を使うことです。想像することは「記憶を扱う」ことを含みます。
自伝的記憶(AM)は、大面積の新皮質および辺縁系を通して分布するニューラルネットワークによって仲介される複雑な認知システムである
自伝的記憶には、自伝的知識、例えば個人的な事実に関する知識が含まれています。私たちの時代の歴史などの文化的な知識。それはまた、エピソード記憶、例えば経験から導き出された断片的な知識も含む( Conway、2009)。そのようなものとして、それは自己の主要部分を形成している。
これらはPCで想像して頂くと、古く、そう10年前ぐらいに撮影して保存している写真があるとしましょう。
その写真ではアナタはどんな表情をしていたのか?
どんな場所で撮ったのか?これらはPCの場合データとして正確に保存されているため、鮮明な画像を再び見ることができますが、人ではどうでしょう?
記憶で構築される想像した映像は、天気、温度、場所、背景などすべての情報を思い出すことは大変困難になります。
そのように自伝的記憶というものは、私達のメモリから想像して思い出すということなのです。
そして、強烈に印象が残るエピソードが含まれる場合もあります。
それらは自伝記憶とは別にエピソード記憶とされ、エピソードがはっきりしている部分の記憶は鮮明であることもあります。
これらのように記憶を遡り思い出す、ということには正確性が欠けやすい要素が含まれているということと知って頂けます。
そして、記憶は忘れてしまうこともあります。
それは、脳の炎症、心理的症状などにより起こり、前頭葉や側頭葉を患った70歳代の女性の例では、「嘘」が見られるようになったということも報告されています。
このことから、記憶には実際体験したことに加え、精神的な面が強く干渉してくることがわかったということです。
つまりは、その人が体験したストレスが部分的であったことだとしても、
その部分的強調され、実際に起こり得た記憶とは違った記憶を発現することも多々あるということである。
医療という体の悩みがあり気な対応をする際、その悩みから聞き出したエピソードは正確性に乏しいのかもしれない。ということを念頭に置かなければ見逃してしまったり、過剰にサービスを提供する場面もあるということが予想されます。
これらを回避するには、
まず引き出した思い出、記憶は否定しない。
記憶=個人というように分析された結果があるため、
エピソードの疑い、否定をする言動は個人を否定していることと同義と、
捉えられてしまう可能性がある。
引き出したエピソードに共感を示し、現状を確認することに集中したらどうでしょうか?
そして、エピソードを引きずらないようにし、患者が求める期待、希望に対して具体的な提案をする。ということで解決しそうなもの。
実際には、様々な状況下で冷静に判断をくだし、これらを実行することは反復の練習が必要だと思いますが、私は独り言でシュミレーションしたりしています。
これは中々におススメです。
現場で、患者からの訴えを「それって本当にですか?ありえなくないですか?」というニュアンスの言葉を発する人がいたこともあり、このような記事を書きました。
記憶というものには、思い出から想像されている事実はあるようですので、
100%頼りにせず、100%目の前の患者さんに力を注ぎこんでいけば良いのかと。
そう考えると、電子デバイスの活用はもっと普及していきそうですね。
カルテとか問診票とか。
何せ、変換されることなく残りますからね。